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70形ものがたり

 70形は1935年〜1940年の間にM車22両、T車10両の計32両が作られました。この数字は加賀電車両歴代最大製造数としていまだ破られていません。ちなみに第2位が200形の15両(M車10両T車5両)ですから、倍以上の差をつけています。
 70形は「とにかく短期間に大量に」作ることができる車両として開発されました。そのためMT同仕様、機器流用など、正直華に欠けるクルマです。しかし、加賀電の隆盛期からシャイニングカラーの500形への橋渡しまでの長期にわたって活躍し、加賀電の発展をひ弱なボディと走行機器で支えてきました。その功績の高さが「機械は役目を終えたら速やかに消えるのが美学」と言わしめる加賀電において唯一の保存車両として現存していることにも現れています。
 ここでは、そんな70形の形態的推移を見ていきます。なお、写真は加賀学園鉄道研究会のOBから提供を受けていますが、残念ながら戦前のころ軸受け時代の写真はありませんでした。

【1】原形M車(70形)/原形T車(60型)

▲両運転台でパンタグラフがPS13であるのが原形車の特徴。1970年ごろから順次PT42への交換が進められましたが、全車両に波及する前に形式消滅しました。

 じつは上の写真、厳密には原形ではありません。車体に関しては間違いなく原形なのですが、台車の軸受けがころ軸受けに改造されています。本来の原形は平軸受けですが、走行性能が低い70形は戦後ベアリングが入手できると優先的にころ軸受けに振り換えられたそうです。一方で車両性能に余裕のあった50形は、けっこう遅くまで平軸受けのままでした。
 1935年に71〜77。1936年に78・79と61〜66、1937年に80〜85と67〜69、1938年に86・87、1939年に88〜90、1940年には91号車と60号車が作られました。70形のコンセプトである「同一形態・同一構造」は新造時においては頑なに守られており、32両すべて形態の違いはありません。
 60型は車体の構造は70形とまったく同じで、違いは床下機器と前照灯、尾灯、手すりがないことです。正面下部のアンチクライマーは車体構造の一部なので中間車にもかかわらずついています。なお、10両ある60型の車番は60〜69ですが、いちばん最初に作られたのは61号車で、62・63・64…69と作られた後、60号車が作られています。

▲原形の60型は1950年までに消滅してしまいましたが、70形は比較的遅くまで原形が残っていました。最後に残った4両のうち、86号車がPS13でした。

【2】貫通化改造

▲運転台撤去の上貫通路が取り付けられた86号車。

 桜木町事故を受けて、車両と車両の間は通り抜けができることが望ましいとして、T車を貫通化、M車の運転台を片側撤去するなどして編成を固定化することにしました。1950年までに表のような編成が組まれました。
 このとき、3連10本と増結用単車4両に分かれ、3両編成は半ば固定編成で使われましたが、車両が不調なときは増結単車をかわりにつないだり、時には50形を連結して走ることもありました。50形は50形で中間に60型を挟んだ3連2本+増結用単車1両のフォーメーション。馬力があるため急行での仕様が中心でしたが、70形と50形の連結は可能なので50形の単車を後部に増結して4両編成で走ることもしばしばありました。MTMの3連では非力な70形も、増結で50形が連結されるとけっこういい走りをするので増結用50形を「ターボカー」と部内では呼んでいたそうです。
  70形はラッシュ時4連、日中は3連で加賀電普通電車の主力として活躍。普通電車は1950年当時全部で10運用ありましたので、70形が検査に入らない日は普通電車が70形だけで運用される日もありました。貧弱ではありますが、70形は加賀電の「顔」だった時期もあるのです。
 こうして普通電車の主力として活躍した70形ですが、景気が上向き、旅客の増加が目に見える形で進んでいくと、50形や70形のような小型車は輸送力不足が顕著になってきました。とはいえ、北陸鉄道傘下の加賀線時代は加賀線だけに車両を投入するわけにも行かず、また、独立後は独立後でお金がなく、70形を改造して車両の大型化をはかって、低コストで輸送力の増強を図ることにしました。そのため早くも1955年には台車やコンプレッサなどの機器を新形式車両90形に捻出するため、車体の老朽化が激しい61・71の2両が90形に機器を供出。1958年には800形への部品供出のため72・73・62・74の4両が廃車となりました。

▲1975年に登場した400形とすれ違う70形4連。70形4連の定員280名に対し、400形は3連で定員388名。信号設備が編成長60メートルまでしか対応していない加賀電では、1両あたりの収容力を増す必要があります。車体幅の狭い70形はこの点でも不利でした。

【3】全金改造車83号車

▲コンタがまるで揃っていない凸凹編成。85号車を先頭に70形と50形を連結しています。1960年代に入ると70形の故障が目立つようになり、このように50形が代わりにつながれることもよくありました。

 70形の異端車といえばただ1両の全金改造車である85号車でしょう。1957年8月に小松〜白江間の併用軌道でトレーラーが腹に接触し、85号車は台枠にいたるまで損傷を受けました。その85号車の部品を流用して全金属車体をかぶせたのが85号車です。軽量設計のため低かった天井を50形なみに高くとり、車内は明るい蛍光灯、正面はRの付いた2枚窓(ただし窓ガラスは平面ガラス)とスマートな車両になりました。
 運用復帰後は85+67+86で編成を組んで活躍しましたが、屋根の高さの違いから来る違和感は相当なものでした。800形がむやみに車体を大きくしてパワー不足に陥った反省もあったのか、車高以外は車幅、全長とも70形と同じサイズで登場したため、800形や30形と連結しても違和感がぬぐえず、加えてこのスタイルで登場したのは85号車1両だけだったのでなんとも中途半端な存在でした。

【4】700形との連結

▲700形とつながった70形。運転にはかなりの苦労があったことでしょう。

 1960年代になると固定編成も輸送事情から徐々に崩れていきます。800形への改造で4両、90形への部品供出で2両が離脱。さらに戦時設計ゆえの痛みが激しくなり修繕が始まると、とりあえず動けるクルマで3両編成を組んで走るような状況となりました。
 さらに70形の機器を使って更新した800形がパワー不足のためにMT編成ではまともに走れず、70形を増結して走らせたりするなど、編成美はだんだん崩れていきました。極めつけは1973〜1975年に行われた700形との連結運転でした。朝の急行の混雑は大型車の700形をもってしてもなおかなりのもので、少しでも混雑を緩和するため、増結用の70形をつないだ3連で運行しました。70形はHB制御、700形はABF制御でしたが、ブレーキは両車ともSMEだったのが幸いでした。70形が先頭になる際は通常の運転操作でよいのですが、700形が先頭になる場合は4段しか刻みのない700形のマスコンではOVRが動作してしまいます。そのため700形が先頭になる場合は70形の力行回路を殺して1M2Tで運転していました。
 700形がパワフルな車両なのでできたことですが、それにしても小型車と大型車の連結は実にアンバランスでした。

【5】エコノミカル台車試験

▲85号車は他の70形よりもちょっとだけ軽かったので、軽量台車のテストベッドに選ばれました。

 70形で成功し、800形でずっこけた「軽量車体による経済運転」の甘い汁が忘れられないのか、1971年に85号車にエコノミカル台車を履かせた試験が行われました。軽量車体に軽量台車の組み合わせで、37.5キロワットモータをまわした結果「これはいける」と何かをつかんだのでしょうか、1975年に400形として結実しました。
 ……もっとも、400形も盛大にずっこけて量産は当たり障りのない500形となりましたが。

【6】そして引退。70形が残した教訓

▲ヘッドマークをつけて運行されたさよなら列車。機械はオーバーロードで使わず、定格で使うべしという教訓を加賀電に残しました。

 JR東日本クラスの大規模会社なら32両なんてホンの一瞬で置き換えられるでしょうが、それなりに恵まれているといえ小規模事業者の加賀電鉄では、そう簡単に置き換えが進むものではありません。1973年に投入された700形の大輸送力は加賀電の営業政策に大きな転換をもたらしたものの、予算の都合もあって置き換えは遅々として進みませんでした。
 とはいえ70形も37.5キロワットモータを常時オーバーロードでまわしているため稼動車両は目に見えて減っていきました。性能に余裕のある50形は比較的トラブルも少なく、機器は30形に再利用されて第2の活躍を続けていましたが、さすがに70形の機器を再利用するという考えはもう、ありませんでした。
 1968年に高性能ロマンスカー300形が登場すると、それまで急行用だった50形・90形が普通電車にも使われるようになり、結果押し出された70形5両が廃車されたのを皮切りに、1970年には30形に機器を供出するために2両廃車、1973年の700形登場で一気に11両が廃車となり、この時点で8両が残るのみとなりました。この8両にしても事実上稼動するのは4両だけで、4両は予備車両扱いでした。
 この予備車両も1975年に400形が登場すると廃車となり、残り1編成、87+89+68+90のMMTM編成も平日朝ラッシュ時に1往復するだけとなりました。この最終編成も1977年に500形が登場すると入れ替わりで廃車。ここに32両の70形はすべて引退となりました。
 70形はオーバーロードで使われることが標準だったので、故障の多い電車でした。しかしそれはシステムの責任ではなく、デザインの責任です。70形で(さらには800形で)辛酸をなめた加賀電は「システムは定格で使うべし」を教訓に以後の車両をデザインするようになりました。
 135キロワットのオールMという、一見零細私鉄とは思えないハイスペック車が投入されているのも、70形の苦い経験が生きているのです。
 

【7】70形それから

▲白山工場に保存された87号車。弱電系はすべて生きているのでイベントの際にデモ走行を行うこともあります。
 

 加賀電の線路から姿を消した70形。多くの車両はそのまま解体処分となりましたが、最後まで残った4両は、中間車の68号車がレール運搬車に改造されて原形をとどめていないものの、残りの3両は何らかの形で姿をとどめています。
 最後に残った4両のうち、89号車と90号車は救援車911形に改造され、現在も白山車庫でいざというときのために待機しています。唯一両運転台で残った87号車は廃車時の姿で白山工場で保存されており、車庫後悔イベントの際に見学することができます。
 このほか、1960年代に廃車となった車両の一部が粟ヶ崎海岸のバンガローとして使われていました(車号失念)が、粟ヶ崎海岸の港湾整備のため1974年ごろに姿を消しています。バンガローは70形3両が床下機器を撤去された状態で3両すえつけられており、車内は3区画に区切られていたそうです。

▲粟ヶ崎海岸のバンガローとなった60型(と思われる車両)。3両で9グループの宿泊ができたそうです。
 


▲救援車911+912号として生まれ変わった70形の89+90号車。

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