六甲電車

 

六甲工場に静態保存されている11号車。屋上に並んだ抵抗器が急勾配路線の証。〈六甲工場〉

11形〈イレブン〉


 六甲電車のルーツは1930年開業の宝有電気鉄道に始まる。もともとは小林一三率いる箕面有馬電気軌道が特許を保有していたが、日露戦争後の不況で箕面方面は開業したものの、有馬方面は宝塚から先の建設めどが立たない状態で放置されていた。いわんや小林は宝塚に「宝塚温泉」なるものを引いて、本来有馬へ行くであろう観光客を宝塚で留め置くような施策を打ち出した。
 これに対して有馬温泉の組合は温泉存続の危機として、宝塚〜有馬間の鉄道建設の出資を募ったところ、六甲山の観光資源を狙っていた阪神電気鉄道が応じ、さまざまな水面下での駆け引きの元、1920年に宝有(ほうゆう)電気鉄道が設立された。
 しかし、六甲山を貫く工事は困難を極めたうえに長引く不況で出資が集まらず、開業したのは1930年と、会社設立から実に10年もの歳月がかかってしまった。
 このとき揃えられた電車が11形〈イレブン〉で、勾配線に特化した性能を持つ。システム全体は阪神電気鉄道の三崎省三技師の影響をたぶんに受けたインターバンスタイルで、車体幅2,400mm、全長14mのボディにMB-98Aシリースモータを4基搭載し、これをHBF-104-15EDコントローラで制御する構造となっている。HB単位スイッチコントローラは直列5段、並列4段、弱め界磁1段の10段。
 14m級の車体に75kw×4とはいかにもオーバースペックだが、これは力行性能というよりも下り40‰勾配での発電ブレーキ性能を期待したための装備。抑速ブレーキこそついていないものの屋上に並べた抵抗器を通した強力な発電ブレーキはまさにヒルクライム・インターバンの象徴だった。
 一方で高速性能は完全にオミットされており、ギアリングは吊り掛け式としてはかなりのローギアードとなる4.69。定格回転数が895rpmなので定格速度は30.9km/hに過ぎない。宝有電車の宝塚〜有馬間の平坦区間は駅前後を除きほとんどなく、逆に約70%が40‰勾配なので、平坦線での性能を考慮する必要はまったくなかった。
 ブレーキはSME。電気ブレーキはマスコンハンドルを逆回転で操作し、ブレーキハンドルは空気ブレーキのみを制御する方式。電制5ノッチは非常電制で全抵抗を保護回路をバイパスしてで直列につなぎ、5km/h程度まで減速する。この非常電制の考えかたは、以降六甲電車の基本的な安全対策として盛り込まれ、最新型の2500形に至るまで、一部の平坦線専用電車のをぞいて非常電制を装備している。

当初は前照灯が貫通路にあった。また、トンネルの断面を小さくするため車高が低い。保存車両と比べると当時はパンタグラフの下に「やぐら」がないのがわかる(絵葉書)。〈月見山〜宝塚〉

 スタイリングはアメリカのパシフィック・エレクトリックを多分に意識したものだが、建設費圧縮のためトンネル断面が小さく、車体高さを低く抑える必要があり、屋根が薄いためいまひとつ迫力に欠けるきらいはあった。
 車内はロングシートだがビロード張りの豪華なものをおごっていたようだ。しかし戦中に輸送力を増すため座席を交換。座面高さ460mm、座面奥行き430mmというたいへんかけ心地の悪いものとなってしまった。これは廃車までそのまま維持されてしまった。

踏切事故に遭遇した17号車は車体を新造して軽量車体となった。〈電鉄摩耶〜護国神社〉

 六甲電車は特に戦災にも遭わず、11形も10両すべてが戦後を迎えたが、そのうち17号車は1960年に船坂で踏切事故に遭い大破。車体・台枠は放棄され、電気品を流用して車体と台枠を新造し新17号車として生まれ変わった。このとき将来の新型車両(100形)のテストベットとして準張殻構造軽量車体のボディとし、前面は非貫通の流線型で片運転台となった。
 1963年の宝塚〜神戸全通後も六甲山越えの主力として活躍。晩年は3連2本、2連2本に半ば固定され、3連は1系統で、2連は5系統で使われたものの、ポートピア'81を前にした1981年3月1日をもって全車両引退した。
 現在、11号車が六甲電車創業時の車両ということを記念して六甲工場に保存されている。

『ポートピア'81』の副標を掲げて力走する11形。しかしポートピア'81開催直前の1981年 3月1日に運行を終了している。〈六甲山口〜六甲山〉

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