六甲電車

 

架けなおした武庫川鉄橋を渡る9500形。シルバーボディの9500形は復興のシンボルとして現在も活躍してい る。〈宝塚〜月見山〉

阪神・淡路大震災と六甲電車
 1995年1月17日、兵庫県南部および淡路地方に甚大な被害をもたらした阪神・淡路大震災。六甲電車の営業エリアのほぼ全域が震度6(※当時。現在の気象庁震度階級となったのは1996年から)〜震度7という大きな揺れとなり、全線に渡り路盤が崩壊。運転不能となった。
 運転指令は即時非常電源に切りかえ、全列車の運行抑止を伝達するものの、各所でケーブルが切断され情報の伝達もままならない状態となった。5時47分の段階で12列車が運行していたが、当該乗務員は旅客の安全を確認の上、最寄り駅に誘導。負傷者を病院に搬送する手はずを整えるものの、救急も手一杯で対応ができず、電鉄医療班が有馬駅に臨時の救護所を設置し負傷者対応を行うなど、混乱と焦燥の中で1月17日は暮れていった。
 1月18日に工務部が全線の被害状況をまとめるべく、有馬を境に船坂工務区と六甲工務区が手分けして調査した。状況はきわめて深刻なものばかりで、大きなところでは宝塚〜月見山間の武庫川橋梁が倒壊、第3六甲トンネル内で最大12cmの地層のずれが生じ、また、第1系統の岩屋〜海岸通間では液状化現象による地盤の沈下や高架橋の倒壊に見舞われた。
 また、山すそにある六甲車庫の一部が土砂崩れで埋まり、留置中の車両が被災。六甲工務区の機材も土砂に埋まってしまった。列車への被害は地震の発生が早朝だったため運行列車自体が12列車と少なかったが、それでも5編成が脱線・転覆となった。死者が出なかったのは幸いだった。
 被災現場を視察した工務部長が「六甲電車はこのままなくなってしまうのではないかと絶望的な光景だった」と述懐するほどの被害の中、すぐに工務部で動ける人間が招集され、現状の把握と復旧作業への取り組みが始まった。


震災発生時の被災状況。状況をまとめた当時の工務部長は「一体どこから手をつけていいのか皆目見当がつかなかった」と語っている。


動けない車両が線路上に残っていると復旧の妨げとなるため、本線上の車両は可及的速やかに現地解体されるか待避線へ収容された。画像はトンネル内で被災した1002編成1032号車を牽引する軌道モーターカー。トンネル内も天井にヒビが入り、架線も撤去されているのがわかる。〈山上の街〉


被災車両を運び出す
 呆然と立ち尽くしていても何も始まらない。一日でも早く電車を走らせるために工務部は再建計画を立てた。
 インフラの復旧において「動けない車両」ほど邪魔なものはないので、六甲車庫の被災車両はトレーラーで運び出し、市内某所のグラウンドに仮置きすることで作業空間を確保。六甲車庫が復旧したら次は船坂車庫の車両を六甲に運び出し、船坂の復旧を進める手順をとることとした。車庫機能が生き返らないことには電車を動かすのも容易ではないためだ。
 その際問題となったのは船坂〜六甲山口間で被災した2列車だった。松尾橋〜瑞宝寺間の1512編成は損傷が大きく作業用車両の牽引も不可能なため、トレーラーで運び出すことができず現地解体。第3六甲トンネル内で被災した1002編成はトンネル内で脱線したため現地解体というわけにも行かず、簡易ジャッキを作業車に詰め込んで1両ずつ牽引して船坂まで持っていくことになった。
 神戸市内の橋脚崩壊も深刻だった。1系統の西灘〜海岸通間は地盤からやられてしまい、1から作り直すこととなった。同区間では2編成が被災したが、いずれも現地で解体された。
 宝塚方面では宝塚〜月見山間の武庫川鉄橋が倒壊。根っこを押さえられてしまった格好となり、長い間月見山〜宝塚間では代行バスによる代替輸送を強いられることとなる。紅葉丘〜船坂間の第1六甲トンネル内では2箇所が落盤。電鉄有馬〜六甲山間の第3六甲トンネルでは最大12cmものずれが生じ、やはり復旧には長い時間がかかることとなる。
 そんな中でも比較的被害の軽かった新神戸〜電鉄六甲間と上野通〜西灘間は1月30日より運転を再開。普通列車のみやく20分ごとの運転から六甲電車の「復興」が始まった。この段階では六甲車庫は被災し使えないため、本線上にとどまっていた3編成を使っての運行。検査は電鉄六甲駅の副本線を使って行なうこととした。また、電鉄六甲駅の駅舎は倒壊したため、仮設の駅舎での再開となるなどまさに満身創痍での船出となった。

車庫の復旧を急ぐため、市内の空き地に並べられた六甲電車の車両。一部車両は再起することなく廃車となった。

■代行バスの手配
 代行バスの手配も深刻だった。
 とりあえず使える道路を使い普通区間は代行バスで輸送する手はずを整えたくとも、六甲電鉄バスは山上の街と有馬地区を中心とした小規模事業で、台数も20台程度しか所有していない。そのため県外を超えて他社からの応援をたのむこととなるが、神戸市内いずれの事業者も1台でも多くバスを確保したいがために奔走したため、なかなか満足のいく台数を走らせることができなかった。そのため電鉄六甲駅前ではバスの待ち時間が2時間を超えるなど、旅客にもたいへんな迷惑をかける結果となった。
 代行バス輸送は鉄道の復旧に合わせ運行区間をめまぐるしく変えつつ、8月30日の宝塚〜紅葉丘間まで行なわれた。

遠く東北から応援に駆けつけてくれた代行バス。全国各地のバス事業者の協力のおかげで、六甲電車の輸送機能を復旧まで維持することができた。〈表六甲ドライブウェイ〉

■9500形搬入
 被災した在籍車両のコンディションは、各車両念入りに検査しなければ安全を保証できない。しかし、六甲工場も船坂車両検査場も被災しており、電鉄六甲1番のりばの仮検査場だけではどうにもならなかった。
 そこで現地解体などで復興後確実に車両不足となる分の車両を新造し、復旧区間に順次投入する方針を立てた。当面必要な編成は7編成とされたので、9500形と命名したステンレスカーを5月までに7編成、部分復旧した六甲車庫に搬入した。この頃になると元町〜六甲山口間が復旧しており、3編成だけでは心もとなかったところに一気に7編成が投入されたため、混雑も大幅に解消された。
 9500形のシルバーボディは、暗く落ち込んでいた沿線の雰囲気をいくらか明るくしたことだろう。

部分復旧した六甲車庫に並ぶ、納車されたばかりの9500形。復興区間の一番列車を確率上数多く体験し、復興のシンボルとして沿線民や利用客にその姿をアピールした。〈六甲車庫〉

そして全線運転再開
 全線の運行が再開されたのは1995年8月31日だ。最後まで残った区間は高架線が破断した西灘〜東公園間と武庫川鉄橋を一から作り直した宝塚〜月見山間。当日は宝塚駅と東公園駅で花束贈呈が行われ、それぞれ4時50分発東公園ゆき普通電車と上野通り行き普通電車に記念副標を取り付けて運行された。
 そして前日まで活躍を続けた代行バスは30日の西灘発東公園ゆきを持って終了。ここに六甲電車全線の運行が再開となった。
 しかし、六甲工場や船坂車両検査場の復旧が終わるには、これからさらに2ヶ月を要した。そして震災によって費やされた復興費用は六甲電車の肩に大きくのしかかり、新車の製造は2005年の2000形まで約10年も途絶えることになったのである。

架けなおされた武庫川鉄橋を渡る試運転列車の9500形。この区間を最後に六甲電車は全線の運転が再開された。しかし、このあとも船坂車両検査場や六甲工場の機能が完全に復旧するまでには更なる時間を要した。〈宝塚〜月見山〉

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